グンゼ製糸八鹿工場は八鹿の街の基礎を作った

a0012542_1844087  郡是㈱八鹿工場は鎌田製糸所を買収し大正3年に設置されました。
そのころの八鹿の端は郡是八鹿工場でした。郡是八鹿工場から八鹿駅の間はほとんど家がない状態でした。「汽車の煙突で家が燃える」「泥棒が汽車に乗ってやってくる」と八鹿駅を作るときは大変でした。
山陰線八鹿駅が整備された後、雑貨類、衣料呉服、自転車などの店が軒を連ね料理飲食、旅館等も増a0012542_1893091加し芸妓の姿も多く見られるように発展してきました。
諏訪町から駅前まで人家が現在のように繋がりました。現在の八鹿町の街中の姿はこの頃に作られたものです。
第2次世界大戦の時、郡是製糸八鹿工場は川西航空機の協力工場となり、紫電、紫電改という海軍の局地戦闘機を生産しました。
工場は3交代で1800人もの従業員が働いていたようです。

戦後はガチャマン景気といわれる好景気を迎え、織機を150台を運転、寮が3棟、社宅が20戸、従業員は3交代で働き、多くの人が歩き賑やかでした。

こうした歴史を刻みながら平成21年にグンゼ八鹿工場は閉鎖されました。
今は、約1万坪(現在は約8千坪)と言われる土地と事務所棟などが残されたままとなっています。(グンゼの歩み、養父市まちの文化財等から転載しました)

郡是八鹿工場の歴史は、八鹿の街並みを形成した歴史であり、八鹿町の歴史、養父市の歴史を作ってきたといっても過言ではないと思います。郡是通路グンゼ受付窓口

平成28年12月に「養父市文化会館(仮称)建設基本構想」が策定委員会から答申されました。
郡是入ったとこの外側郡是の八鹿焼き三重の塔各団体や地域から14名の代表者で構成されています。
会長には兵庫県立大学の福島教授が互選されました。 12月に会長から養父市長に答申書が提出されました。
「グンゼ跡地に文化ホールや図書館などを平成33年度に開設する。財源は合併特例債」という内容です。会長は「この施設が必要なのか?から議論しました」と話をしていました。
市長は「市民の声を聞きながら基本構想、計画策定をしたい」と述べています。

答申書は、養父市のHPからご覧になることができます。