池田草庵が開いた但馬最古の漢学塾 立誠舎

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立誠舎は、天保8年(1837年)まで西村潜堂が石門心学を教えていた場所です。
八鹿の人々は新しい指導者として京都一条坊に漢学塾を開いていた宿南出身の儒学者・池田草庵の帰郷を懇願し天保14年、池田草庵による立誠舎が始まりました。
草庵の人格・学問の素晴らしさは郷里の人々にもよく理解され、立誠舎は多くの若者が入門し勉学に励みました。最初の入門者の中に京都府第3代知事で琵琶湖疎水を行った北垣国道もそのうちの一人でした。
門人は、立誠舎時代4年間で62名、青谿書院時代31年間で611名にもなりました。
池田草庵の没後、門人たちは私学山陰義塾を開き、県立の簡易蚕業学校の開設に尽力。
後に県立農蚕学校となり、県立八鹿高等学校、県立但馬農業高等学校へと発展しました。
「立誠舎」は但馬や八鹿の教育文化の源泉として極めて重要な史蹟です。

【立誠舎秘話】
6代目西村庄兵衛は生野義挙に参加し勤王の志士を支援しました。
立誠舎は、平野國臣や美玉三平らの隠れ家になりました。

立誠舎に葺かれた瓦は八鹿焼きです。八鹿焼きは明治5年6代目西村庄兵衛が自宅の改築に必要な瓦を焼くために職人を島根から呼び寄せて始まったものです。
大屋根に配置された魔よけの鬼瓦も八鹿焼きです。雌雄一対目玉がくりぬかれた珍しいもので、保存修理では、八鹿焼きの瓦を後世に残すために再利用しています。