八鹿の道路元標

明治10年までの幹線道路

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明治12年以降の幹線道路

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現在の八鹿ふれあい倶楽部

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昭和30年頃の八鹿郵便局

dsc03638八鹿ふれあい倶楽部の前に「八鹿町道路元標」と書いた石碑があります。高さ77㌢、幅25㌢の石柱です。
大正8年(1919年)、日本で初めて道路法が公布されました。その施行令によって道路元標を各市町村に1個を置くことを定めました。
現位置は大正9年に兵庫県告示第225号で場所が決められました。
明治10年までは上網場~下網場~大森の円山川沿いの街道が幹線道路でした。
明治11年に宮越交差点から京口を通って八鹿ふれあい倶楽部に至る道路が、県道の改修工事によって作られました。
明治12年には新町・諏訪町・大森などの直線道路も新し く整備されました。この結果八鹿ふれあい倶楽部の前の道路は、豊岡・鳥取・姫路を結ぶ結節点となり、但馬の交通網の重要な分岐点となりました。
国道9号が開通するまでは長い間但馬交通網の結節点となりました。
このためここに「八鹿道路元標」が設置されたのです。
平成24年11月、北近畿豊岡自動車道が養父市まで開通しました。
道路元標の意味はなくなりましたが、今も静かに道路を見守っています。(養父市まちの文化財より抜粋)